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画家 池田 龍雄

森正洋君の思い出

 森正洋君との初対面は1948年3月、敗戦二年半後、まだ焼け跡だらけの東京の多摩美入試の日だった。世田谷区上野毛の校舎は空襲でやられ、その先の川崎市溝ノ口の工場を借りた殺風景な一棟の校舎、その一角で九州弁が聞こえたので近付いて尋ねたら「塩田」という返事、「ぼくは伊万里です」というわけで忽ち意気投合した。

 以来二人は、十年の知己の如き間柄となって、科は違っても(彼は図案科、わたしは洋画科)登校すれば必ず何処かで顔を合わせることになった。なにしろ新入生は90名ぐらいだったか、それに、上級生が20人程度で、教室の数も僅かだったからである。だが、わたしはその半年後の10月末から、岡本太郎や花田清輝らが「アヴァンギャルド芸術研究会」なるものを開いているのを知ってそこに飛び込み、同時期にアルバイトのために、新聞広告で知った新橋の小さなデザイン会社に勤めることになった。そのとき図案科の学生と偽って持っていった見本は森君に画いてもらったものである。早速採用されたが、すぐに正体がバレて給料は千円に落とされ、「君にできることをやってくれ」とやらされたことの一つは、銀座の一丁目から八丁目までの両側にある建物の看板の文字まで克明に写し取る写生であった。進駐軍の買物マップの下図である。

 また、同じころ、わたしはKという五つ年上の彫刻科の学生と仲良しになったが、彼は変わった男で、学校の門前20メートルの畑の中に作られた、きっちり一坪の木造小屋に住みながら、殆ど学校には行かず、お伽話の「三年寝太郎」みたいにひねもす小屋のなかで哲学書など読みながらゴロゴロしていて、夕方学生がいなくなった教室で、実存主義的彫刻を如何に創るか、といって粘土と格闘している御仁だった。わたしも森君もそういう彼が気に入り、ときどきその小屋を訪れておしゃべりに興じたものである。興に乗ってからは自慢のヴァイオリンを弾いてくれたりしたが、これはお世辞にも有り難く聴けるようなものではなかった。しかし、それよりももっと有り難くなかったのはシラミをその卵ごと沢山貰ったことである。寝太郎氏は彫刻よりも上手にシラミをこしらえ養っていたのだ。

 そのK君も年が明けてまもなく板橋の彫り物彫刻師の家に住み込みで働くことになり、小屋を去る前夜、森君と三人で盛大にパーティーをやったことは忘れられない。盛大といっても、持ち寄った米を飯盒で炊いて腹いっぱい食べたことである。どぶろくも少し飲んだか、K君はご機嫌になって得意のヴァイオリンをかき鳴らし、ペルシャのオマル・ハイヤームの四行詩「ルバイヤット」の一節を、自分勝手に怪しげな節をつけて口ずさんだりした。そのあと彼は4月、芸大に入ったことまでは知っていたが、それから30年後に偶然再会したときは意外や、郷里の長野で高名な陶芸家になっていた。

 その頃、森君は既にグッドデザイナーとして高く評価され、職場である白山陶器の名を上げ、東京のデパートで作品の展示のために上京するので、その都度会いに行った。その作品の一部、湯呑とか皿など貰ったものは今でも大事に使っている。やがて彼は愛知芸大の教授になったりして名前も高く重くなったが、逆に会う機会は少なくなった。

 そして最後に会ったのは、東京国立近代美術館で彼が個展を開いたときだった。初日に早速駆け付けたわたしの手を熱く握り締めながら「やぁ、来てくれたね、有り難う」と、眼鏡の奥に浮かべた朴訥な笑顔が忘れられない。

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