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西日本新聞社社友  山本 康雄

森さんが履歴に必ず記した「陶芸家松本佩山に師事」とは

 私が森正洋さんを初めて取材したのは、文化部記者駆け出しの昭和四五、六年、波佐見町の白山陶器でした。その時、森さんは「西日本新聞の波佐見焼の記事は経済欄に載って、有田焼はいつも文化欄にいく。どうして波佐見焼は文化欄に載せてもらえないのか」と、波佐見焼の記事が文化欄に掲載されないことに不満顔だったのを思い出します。福岡市でお会いした時も、同じことを言われたので、波佐見焼が果たす生活文化への森さんの強い自負を感じました。
 その後、昭和五二年、私は西日本新聞の伊万里支局に勤務し、有田が生んだ九州初の陶芸家・松本佩山(はいざん)(一八九五―一九六一)を取材して、新聞に連載した時、波瀾に富んだ佩山の陶芸人生の唯一の弟子だった森正洋さんにお会いしたのです。
 その当時、森さんは産業陶磁器の世界で、国内はもとより国際的にも次々と受賞歴を重ねており、その履歴の中に「陶芸家松本佩山に師事」を必ず加えていた。有田焼に近代陶芸を吹き入れた佩山は、中央陶芸界に名を留めることなく、有田に埋没してしまい、「松本佩山」の名前に誰も首を傾げたでしょう。
 佩山は本名勝治、昭和六、七年、帝展に連続落選して落ち込んだ時、「有田皿山を腰に下げて行く」と気概を新たにして佩山を名乗り、翌年の昭和八年に九州の工芸界から初めて帝展入選を果たした。現在でいえば、日本伝統工芸展で受賞するほどの難関を越えたのです。
 その背後には、帝展審査員も務めた陶芸界の重鎮、板谷波山の懇切な指導も見逃せない。東京・田端の板谷波山の窯で書生をしていた有田出身で、東京美術学校日本画科で学び、佩山より5歳年長の鷹巣豊治が、佩山を波山に弟子入りさせていたのです。
 そんな佩山に画家志望の森さんが近づいたのは、終戦の年、佩山が有田町から佐賀県藤津郡鹿島町(現鹿島市)に窯を移した翌年だった。二人で赤絵窯を築いたりして、森さんは佩山の作陶を傍で、二年ほど学んで、多摩造型芸術専門学校(現多摩美術大学)へ進学します。「焼き物の技法や釉薬の調合などは一切教わらなかったが、作陶の攻め方、プロセスを見たのが勉強になった」と、師を語った。
 酒飲みの佩山は仕事には厳しかった。窯焚き、釉薬の調合は勘ではなく、理詰めで科学的手法でした。釉薬調合ノートを見ると亀の甲化学式の調合法がびっしりと書き込まれています。試し焼のテストピースも数多く残している。そのような佩山と共に、戦後の陶芸界でいち早く手掛けた釉彩作品を焼いた森さんが、その履歴の中で無名の「陶芸家松本佩山に師事」を書き入れたのは、佩山の作陶プロセスを後々まで脳裏に留めていたからでしょう。

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