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MORI MASAHIRO DESIGN STUDIO, LLC.

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初出 FUKUOKA STYLE Vol. 22, 1998. 7. 30 発行

ロングインタビュー
やきものを語る

森 正洋 [セラミック・デザイナー]=ゲスト
筒井泰彦=インタビュー / 亀井信一=構成

やきもの文化人類学

— 「日本ではやきものというものが非常に狭い範囲で捉えられている」と以前、森さんはおっしゃっていましたね。そもそも、人類にとってやきものは非常に用途の広いもので、建築の材料はじめいろんな使われ方がされてきた。例えば万里の長城や北京の紫禁城にも使われているわけですよね。中近東などでもしかり。日本人もそろそろ、やきもの=テーブルウエアという既成概念を取り払って、もう一度考えなおしたほうがいいんじゃないかと思うんです。
 やきものの始まりというのは、ある種の土に熱を加えると硬くなるという発見があって、それをある形にしてつくり出したということですよね。世界史的に見て、やはり始まりは衣食住の住からなんでしょうか。

 住と食と、両方ともあるんでしょう。それもかなりプリミティブな時代からあるんですね。穴蔵生活に別れを告げた時代から始まっている。食のほうでは煮る器ですね。
 住のほうでは、日干し煉瓦(れんが)でしょうか。旧約聖書の「出エジプト記」に出てくる奴隷、あれは煉瓦工らしいですよ。土をとって日干し煉瓦をつくる人です。家をつくらなければいけなかったわけだけれど、日干し煉瓦ならどこででもできたわけですね。
 原始的な日干し煉瓦づくりが今も中国で見られます。これが手づくりとも何ともいえない知恵の産物でしてね。まず田んぼに、スコップや包丁みたいなもので、豆腐を切るように縦横に切れ目を入れていくんです。一過間くらいすると少し乾いてきて、切れ目のところに隙間(すきま)が開いてくる。一個一個が収縮して締まってくるんですね。スコップで取り上げると、ちゃんと四角い形ができているわけです。それを一、二カ月間露天に放置しておくと、自然に乾いて煉瓦になる。これを手づくりというかどうか(笑)。
 この煉瓦で家をつくるんですよ。十五年は持つというんです。それでローンも何もいらない(笑)。十五年経ったら、また煉瓦でつくればいいと。田んぼのほうは二、三年もすれば元に戻るというんです。笑っちゃいますけど、感心するほど自然と共存している。また、その家が奇麗なんだよなあ。中国の山水画などに出てくる農家というのは、だいたい粘土地帯の日干し煉瓦の家ですよ。

— ことさらエコロジーなんていう必要もないわけですね。

 最少の人間のエネルギーでつくっている。ニクいよ、ほんと。これが煉瓦のいちばんプリミティプな形で、次の段階になると木型を使おうということになるわけです。
 木型で面白かったのはトルコですね。キュタフヤというやきものの産地に行く途中に、一族で煉瓦を焼いている集団がいたんですよ。女性たちは家にいて、男たちだけが出稼ぎで出てきているというんです。粘土のある土地を移動しながら煉瓦をつくって生計を立てているわけですね。煉瓦をつくるのは子供の仕事なんです。大人は馬をぐるぐる引いてドラム缶に入れた土を練っている。練った土を子供が木型にパシャッと入れて、成形して干すわけです。

— 容器としての(かめ)も古くからあると思うんですが、甕の場合はどうなんですか。

 甕の場合は手だけですね。回転台を使ってね。太い(ひも)状にした土を巻き上げていくんです。中国はだいたいそうです。肥前の甕もそうですね。
 スペインに大きなオリーブオイルの甕があるんです。ロープの模様が横に彫られていて、造形的にとても奇麗なんですが、それは成形した後に形が崩れないようにタガを絞めたロープの跡なんですね。まさに「用」と「美」がぴしっとイコールなんです。これは説得力があった。
 やきものにはこういうものがときどきあるんですが、端的に見られるのがスペインです。スペインはアフリカに近いから、アフリカに移植されたアラブの文化が入っているんですね。当時南ヨーロッパは田舎で、アラブのほうがやきものの歴史が古いから、まざりあった技法や様式が見られてスペインは面白いですよ。建築とか、タイルとか・・・。

— ところで、やきものの産地というのは、どうやって形成されてきたんでしょうか。

 産地に必要な条件というのがあって、まず当然ながら土がとれる山があること、燃料、そしてやきものを運ぶための川があることです。景徳鎮がそうですよ。重いやきものを川や運河、海の道を経由して世界中に運んでいたんです。運河がペルシャ湾まで通じていたようなものですね。今も景徳鎮では輸送には川を使っているはずですよ。僕が昭和四十一年に最初に行ったときには、まだ汽車も走っていなかったから。当時は、そりゃあ暗い田舎でした。人口は十五万人くらいだったかなあ。

— 今や百万都市ですよ。

 びっくりしてしまうね。中国の古い産地、銅関もそうです。うんと内陸に入った長沙の西にありますが、赤土が出て、湖があって、湖から川と海を経由してエジプトまで行けるんですよ。ヨーロッパもそうですね。マイセンも川沿いにあって、白い土も運搬している。日本の産地も、だいたい当てはまります。
 この間、ベトナムへ窯の調査に行ったら、メコン川の中州に窯があるんです。土はどうするのかと思ったら、メコン川は中国の書甫省のほうから流れてきていて、雪解け水でときどき洪水が起きるんですね。そのときに耐火度のある山の土も流れてくるので、それを原料にするんです。同じ粘土でも有明海の粘土ではだめなんです。ぜんぜん腰がないんです。耐火度もありぎせん。使えるようにするためには、八割方、山の土を入れなければいけない。

— 田んぼの土などでも使える土はあるんですよね。

 山に近いところのものですね。川裾のほうは土が微粒子になるし、有機物が多いんです。粘っこいけれども腰がない。

日本人とやきもの

— 日本のやきものの歴史にも、住と食と、両方あるんでしょうか。

 日本には、なぜか住が少ないんですね。日本は木の文化があったし、建築資材としてやきものを使うには、あまりに湿気が多いという風土的な違いもあったと思います。

— 最初はやはり縄文土器ですか。

 土器と土偶でしょう。「用」の面と「祈り」の面というのかな、それが一緒になったようなものですね。

— 火炎土器の装飾のようなものは、ほかの国にはないですよね。つくつたのは今の日本人とはきっと違う人種なんでしょうね。

 倭の形というのは弥生の形ですからね。縄文はちょっとわかりにくい。しかし、あの時代は安定して豊かだったんですかね。ああいういろんな形のものをつくるというのは、余裕があったんじゃないですか。

— 青森の三内丸山の縄文文化も、鹿児島の国分も、何千年も続いていますからね。かつて日本列島は、日本海を湖として抱えて、北海道と九州が大陸と地続きだった。東北でも鹿児島でも縄文遺跡が出てくるのは当たり前だという話があります。日本人は、二千年くらい前の邪馬台国をオリジンにしたがるけれども、もっと以前の世界史的な流れがあるわけですね。
 そういえば、私たちは学校で陸路中心の歴史を習いましたが、今の日本史では、海から見た歴史、あるいは川などから見た歴史を考えているんですね。それが目からポンと鱗が落ちるような話なんです。で、想像するんです、日本はかつて朝鮮半島と海を挟んで、言葉も一緒、生活習慣も一緒という時期があったのではないか。今のマレーシアやインドネシアと同じような形ですね。

 昔は国の意識なんてない。日本を一つのまとまりとして考えたのは、明治になってからでしょう。それまでは、肥前にいれば、おらが国は肥前じゃ、と(笑)。朝鮮人だ日本人だという意識はなかったんじゃないですかね。

— そういう中で、特に鎌倉、室町という時代は、中国の青磁や染付など高価なものを宝物扱いして買っていたようですね。

 青磁などは、お寺を建てるときにお供え物にするわけでしょ。だから、それは高級な品であったろうし、ほうぼうにお寺が建つ過程で、相当な量が入ってきたでしょうね。

— それだけ需要があったのに、備前や美濃、常滑(とこなめ)なんかで同じようなものがつくれなかったんでしょうか。

 青磁はできなかったんじゃないですかね。それは窯というより土かな。陶石とか、カオリンがなかったんじゃないですか。

— やはり泉山(肥前有田で十七世紀初頭発見された石場)を待たなければいけなかったということですか。一六〇〇年代の泉山の発見をもって日本磁器の発祥とするのは、教科書通りでいいんですか。

 いや、僕も教科書通りくらいしか分かっていないから(笑)。
 それともう一つは、そのころ庶民は木の食器などを使っていたから、一般ではそんなに需要はなかったのかもしれません。東北では、戦後まで塗りのない木の椀を使っていたんですね。ところが九州のこのあたりでは、汁碗も磁器ですからね。東京でそんなことを話すと、みんなびっくりするんですよ。味噌(みそ)汁を磁器の器なんかで飲めるかと(笑)。

— それこそ「椀」じゃなくて「碗」ですね。たしかに、その意味では北部九州は特殊な地域といえますね。

 おそらく戦前までは特殊性があったと思います。このあたりの人たちは、東京の人が味噌汁は磁器で飲むもんじゃないというもんだから、戦後になってプラスチックの椀を使い出したんです(笑)。どれくらいの割合で磁器の汁碗とプラスチックのお椀が使われているか、調べてみると面白いと思いますけどね。

— 十六世紀末の秀吉の朝鮮出兵で朝鮮人陶工が連れてこられて西日本の陶磁器も盛んになりますけど、それ以前に、中国や朝鮮、あるいは南方からの影響というのはなかったんでしょうか。

 物だけが入ってきても、それをつくるための技術が理解されて伝わるということは、あまりなかったと思います。よく似たものが離れた土地にあれば、必ず人間が動いている。ただポンと朝鮮半島から物をもってきても、面白い形だからつくつてみようということにはならないと思いますね。ところが人間が来ると、このつくり方しか知らないということで伝わっていくんです。

— 人の移動があって、初めて技術的ないろんなことが変わってくるということですね。逆に、物だけが来ても伝わらないと。

 物で伝わるためには、それ以前につくるための道具とか技術とか、いろんな関連したものが定着していなければ理解できないと思うんですよ。だから、仏像をつくろうとするときには仏師を連れてくるでしょ。そうやって人に文化を運ばせたんです。
                                                  
— それは、よその国からでもそうだし、日本の中でもいえるわけですね。砥部(とべ)(愛媛県)などは、やはり肥前から職人が行っているんですか。

 明治以後ずいぶん行っています。徳島の大谷などにも行っている。というのは、明治の段階でかなり状況が変わってくるんです。土とか、絵の具とか、つくっている器種とかね。明治に入ると気持ちがいっぺんに変わるわけです。それだけ流通が自由になった。そしていろいろなやきものが流通したでしょうが、どこででもまず必要なのは甕ですよ。水甕ですね。それから味噌甕、醬油(しょうゆ)甕、塩甕・・・。

— どうも甕というのは、やきものを考える上で重要なポイントのようですね。

 甕は生活の原点ですからね。それに甕の形というのは、その土地の民族性や風土を表すんですよ。どこの国のものかその表情でわかる。これはイタリア、これはアフリカというふうに。日本のものでも沖縄系、東北系というのが甕の顔に出ていますよ。
 その土地土地の土の性格で、できる形とできない形があるんです。あそこの形がいいからといって、同じ形のものができるとは限らない。逆に、長く続いている形というのは、そこの土と暮らしに適している形なんです。

— 甕は用途もすごく広かったわけでしょう。穀物の保存、芋類の保存。(あい)甕にもなれば肥溜(こえだ)めにもなる。人骨も入れたんですよね。

 人骨を入れる甕は戻り甕というんです。僕などは使うところを見てますから。終戦のときは、学徒動員で上野(かみの)(佐賀県武雄市)の甕工場にいたんですよ。

— そうなんですか。上野という土地は、僕らは近所にいてまったく知らなかったんですが、大甕を大量につくって、かなり広範囲の需要を満たしていたんですね。

 あれは田の土と山土と、半々でつくるんです。これが七対三になったり、三対七になったりするんですが、どちらかというと山の土が多いもののほうが上等なんですね。というのは、その山土が耐火度があって粘力のある土で、それを多くしたほうが強くなる。

— それは甕専門の職人がつくるんですか。

 いえ、半農半陶の職人ですね。普段は農業をしながら甕をつくる人たちです。昔は甕をつくる人というのは、だいたい半農半陶です。しかも、やきものが主というほどでもない。網元と同じで、窯主はやきものが主なんですが、働いている人は農が主ですね。

— 半農半陶で、その土地土地の需要を満たしていたわけですね。

やきものと暮らし、その現在

— そうやって、いろんなやきものを生活道具として使ってきた日本人ですが、ここへきて、身の回りからやきものがどんどん減ってきています。私たちが子供のころやきものとしてあったものが、今、果たしてどれくらい残っているか。例えば、湯たんぽだってやきものだったし、枕でも磁器のものがありましたよね。

 水道になって水甕はいらなくなったし、味噌・醬油もスーパーで買ってくる。梅干し用の壷もガラスになった。
 しかし食器の種類は、ラーメン丼やカレー皿、コーヒーカップやスープ皿など、食べる物が変わってきたので昔よりずいぶん多くなっています。

— 生活様式がすっかり変わってしまいました。衣食住の中で、衣はほとんど百パーセント変わりましたよね。洋服社会になりました。

 産業革命ですね。衣の工業化は世界的に早かった。だから、織物のほうがやきものより少し流れが速いだけで、流れていく方向は同じだと思うんですよ。今、織物をつくって生活するといったら大変でしょう。ところが、趣味で織物をやる人はたくさんいる。日本で織物をやっている人は、ほとんどアマチュアじゃないですか。美大で織物を専攻した人なんかで、やっている人が多いですね。学校や織物教室で先生をしたり、あるいは重役夫人になってチャカチャカやっている。織物の勉強をしにヨーロッパや奄美大島に旅行に行ったりね。それが究極のレジャーであり生きがいにもなっているんですよ。

— まさに陶芸界もそうなりつつあると。生活道具としてのやきものが減る一方で、趣味の対象としてのやきものは、ますます人気を上げているわけですね。

 やきものは、好きな形ができる、色も付けられる、実際に使える、そしてうまくいけばそれで生活していける。そういうこともあるので、日本人はけた外れにやきものが好きですね。

— 特に陶器の場合は、磁器とは違って、土の風合いや味わいが楽しめるし、ひねりや(ゆが)みなどで、個性を出しやすいということもありますか。

 そうですね。ただ、それも一つの面の裏表でね。表現しやすいのとごまかしやすいのとは紙一重ですから。それと陶器の粘土はつくりやすく、磁器の土はつくりにくい。そして磁器はたくさん生産されているので、ありふれた物になってフレッシュな素材感がないのかもしれません。陶器の自然そのままのラフな風合いが時代の感覚にマッチしてるともいえます。

陶芸作家からわかる日本人の教養度

— アマチュア陶芸家の話が出ましたが、その前に、いわゆるプロの陶芸作家といわれる人たちがいるわけですよね。各地でそういう作家が出始めたのは、いつごろからですか。

 おそらく一九六〇年以降ですね。六二年か六三年あたりかな。社会もかなり安定してきた時期です。例えば、戦後、復員してきて本家の離れで小さくなっていた家族が、アパートを借りたり、家を建てたりして、自分の世界がつくれるようになってきてからです。

— 日本全体でいうと、六〇年安保があって、正式に国際社会の仲間入りをしたあとの時代ですね。

 だから視界が開けたんですね。将来の見通しが立ってきた。それにつれて学術的なことや文化的なことにも動きがとれるようになってきたわけです。そんな中で、「あなたがつくったものを作品として売ったほうが高く売れますよ」といわれて、商品より「作品」をつくり始めたんですよ。また個としての自分を意識しだしたともいえます。

— それが今の玉石混淆(こんこう)、混迷のやきもの業界の始まりですね。それまでの製陶業者とは別のところに、陶芸家という人たちが出てきた。そのころ、ちょうど雑誌ジャーナリズムなどともうまくカップリングしていった時代ですね。

 陶芸家もそうだし、評論家もそうですよ。お店や出版も活発になったころでしょう。

— 麗々しく陶芸作家だなんだといっているけれど、つい最近の話なわけですね、三十年か四十年前だから。原点はお茶碗屋だし、やきもの屋だと。それ以前は混沌(こんとん)としているんですよね。

 混沌というより陶芸家はごく少数で、一般の人とは多少違う特殊な人々だという感じがありました。
 昔、おかしな話がありましてね。テレビや雑誌が取材に来ると、ちゃんちゃんこを着ればいい、そして筆をこう口にくわえればいいと(笑)。パターンが決まっているというんです。どこに行ってもそんなことをいって大笑いしてる。そんな時代が続きました。それもお客の要求に応えた姿勢でしょうけど。

— 僕ら消費者も意識がきちんとしていなくて、そういう人たちをもてはやしたりする面があるわけでしょ。そういう意味では僕らも教養がないわけですよね。

 本当の意味の大人になるためには、もっといろんな情報を取り入れた上で、「あなたはそういうけれども、やっぱりこれはいいんじゃないか」「私の生活にはこれがいい」と自分なりのものの見方を身につけなければいけませんね。その意味では、まだ大人じゃない。

— そこですよね。大袈裟(おおげさ)なことはいいたくないですけど、日本全体の社会の問題、教養度の問題ですね。

 教養度の問題です。今の陶芸作家というのは、特に肥前あたりは苦労人が多いんですよ。好きでやってるのではなくて、そこで生まれて一生懸命やっている。いじましいんです。いい人で、真面目で、努力家なんだけれど、顔が見えない。個性が感じられない。それが何とも寂しいですね。

— われわれも教養がないけれど、つくる側も教養がない、と。その一方で、スーパーで売っている正体のわからない器でよしとする層も多いわけでしょ。

 器の選択に教養がないといったら、もうめちゃくちゃないんですね。試しに、やきもの売り場に一カ月間カメラを設置して、どんな人がどんなものを買うか撮ってみると面白いと思うんですが(笑)。週刊誌などに有名人の晩ご飯を載せているページとか、テレビでも家庭の台所を見せる番組があるでしょう。そういうものからも多少はわかるんですよ。ああ、この家はコーヒーカップがぐちゃぐちゃだとか、この人はかなり選んで使っているなとか。生活の実態が見えて面白い。
 結局、日本はアカデミズムがないんです。戦争に負けてアカデミズムを壊せということで、みんな壊してしまった。だから筋が通ってないですね。
 逆に、アカデミズムがわかる人たちだけを相手にしては商売にならないという面もあるんですよ。僕もよくいわれるんです。森さんのようなことをいったって、そういう客は一割しかいない、九割の人に売らないと商売になりませんよと。さて、デザイナーとしてどうするかなというのはありますね。でも、そういう世界なんですよ。

「民藝」の功罪

— 近世に入ってから日本人のやきもの観に大きな影響を与えたものを二つ挙げるとすると、茶の湯と、昭和初期の民藝運動だと思うんです。茶の湯は、ひしゃげたり、歪んだりといった、いろんな美をやきものに見出し、柳宗悦(そうえつ)さんは、ちょっと偏った見方があったかもしれないけれど、民陶というものを発見した。そして“民藝道”ができて、営々と平成十年まで続いているわけですね。それが末端に行くと民藝喫茶のボテッとした、使い勝手の悪いコーヒーカップに行き着く・・・。

 家に帰ったら、自分では使っていないとかね(笑)。たしかに、民衆の生活用具は美しいと主張した柳さんは、美の発見という点においては、すごいと思う。クリエーターですよ。
 ただ民藝というのは、ちょっと気になるんです。というのは、あの大正末期という時代は、戦前唯一の自由な社会ですよね。大正デモクラシーの時代にお金があった人たちは、すごく自由を味わった人たちですよ。柳さんもインテリの金持ちです。民衆じゃないんですよ。柳さんの民藝というのは、そういう自由の中にいて、上から見た美なんです。そして上から見た価値観で、民芸は美しい。このままが美しい。無心になってつくれといっているんです。つくる人と使う人が同じ場で交流しながら長いあいだつくり続けてきた生活用具は健康で美しかった。
 しかし人工環境の都市で愛用されているアンバランスは皮肉です。また、民芸産地が潰れて、「民藝」作家が出てきたことは非常におかしい。本当はつくる人たちにとって何がいいかということを、もっと柳さんがいってくれたらよかったという気がします。彼は社会革命家ではないんですね。

— 宗教家ですか。

 宗教家でもない。宗教家だったら一緒になってつくる人を救い上げなきゃいけませんよ。そうじゃない、やっぱり東京にいるんだもの。そりゃあ一時期、韓国に行ったり、沖縄に行ったりしていますが、基本的にお客さんです。たしかに、産地の人たちにとっては、それまでやってきた仕事に誇りをもたせてくれたというのはあります。ただ、それで生活できるだけの市場があるかというと、ないわけです。
 沖縄の壺屋に僕も五年くらい呼ばれて行っていたんですが、その間に、壺屋の人たちが自分たちのつくったやきものをだんだん使わなくなっていく様子を目の当たりにしたんです。みんな瀬戸のものを使うんですよ。それで、壺屋でつくられたものはというと国際通りで観光客用に売られている。壺屋焼はもう生活を反映しなくなってしまったわけです。
 壺屋は協会の規制があって、いろんなものをつくるわけにはいかない。僕は壺屋より読谷(よみたん)のほうが面白い。読谷のほうはもっと自由です。

— 壺屋は民藝という縛りにがんじがらめになってるわけですね。

 県や国が産業として何とかしようとしても、何ともならないんですよ。産業として成り立たせるためには、使うものをつくらなければ消費者は買ってくれないでしょ。でも、そうすると民藝のブランドが崩れてしまいますから。こういう問題は、これからもいっぱい出てくると思います。日本だけではなくて、イタリアもそう、スペインでもそう。みんな産業としてはだめですね。それは、変化していく一般とのズレでしょうがないことかもしれませんが。

饅頭屋か、インターナショナルか

— 一方では、アマチュア作家がどんどん育ってきて、プロとアマチュアの境がわからなくなってきている状況もあるようですが。

 ロクロを三年やれば、もう陶芸作家と世間ではいってますから(笑)。実際、そんな感じですよ。そして、小さいときからロクロを習ってきたような人より、定年退職後に趣味で始めたような人のほうが、面白いものをつくつたり、賞をとったりする時代です。今、そんな人が増えているんですよ。
 例えば、長崎県で賞をとって波佐見の陶芸協会長をしているのはアマチュア(?) ですよ。僕の友人で、中学校の教員をしていた人です。ロクロが好きでたまらない人で、中学の先生を定年で退職してから本格的につくり出し、展覧会に出品したらほうぼうで賞をとったりしてすっかり陶芸家が身についてきました。好きでやっているから本もよく見ているし、積極的に行動しています。
 ところが、職人さんは他のジャンルの人たちと話す習慣がないんですよ。そういうふうで、職人さんのほうは情報の入り口がものすごく狭い。そして、決まりきったものしかつくっていないんです。
 アマチュアの展覧会をあっちこっちでやってるでしょ。見ていると、面白いものをつくっているんですよ。技法的にも面白いし、(あか)抜けしたものもある。そういうものをつくっている人は何か別の教育を受けた人が多い。広く一般的な勉強から何か新しいリズムや形が出てくるわけです。単純につくるだけではなかなか出てこないですよ。

— でも以前、森さんと一緒に九州陶磁文化館で柴田コレクションを見たときに、十年幅くらいでデザインがどんどん変わっていたでしょ。ああいう闊達(かったつ)な職人が、昔はいたんでしょう。

 いたというより、来たんじゃないですか。それこそ澤田痴陶人(本誌Vol.18で紹介)と同じです。やきものの町に生まれ育った人とは別の感覚でやっているんです。別の血を入れるというのは大切なことですね。そういう点では、京都は面白いと思います。有名な陶芸家の鈴木治さんは多治見の二世ですよ。山田光さんが美濃の二世でしょ。それから清水九兵衛さんは一世。養子婿(むこ)だから。よそから来て頑張っている人が、けっこういるんです。

— アマチュア作家が力をつけてくる中で、自称作家の未来というのは、明るいんですか、暗いんですか。

 基本的には豊かな社会です。昔は芸の世界は食えないと決まっていました。それでも好きな陶芸の仕事が暗いわけはないでしょう。肝心なのは創作ができるかということです。また、初めから国際性など考えないでしょうね。せいぜい近くのお店か画廊のおばさんなどを気にしているかもしれません。しかしだれかに認められないと独立していけない。一人で物をつくるのは高価になるからです。工場でできるような物では勝負にならない。自分独自の企画、造形、発表が要求されるでしょうし、多くなれば競争も激しくなりますね。
 絵の世界も、もうアマチュアとプロの境がないでしょ。みんなアマチュアだし、プロといえばプロなんですよ。昔よりも絵でメシが食えるようになってきているんです。食っているといっても、饅頭屋(まんじゅうや)で食っているようなものですよ。同級生や親戚(しんせき)に売ったり、記念品や贈答品にしてもらう。ありきたりな品物ではつまらないから、地元の絵かきさんにでも頼もうかということで、けっこう需要があるわけです。そして、それはそれで大変すばらしいことです。
 だから陶芸家の壺を贈るというのも一般的になっているんじゃないでしょうか。小さな陶芸家が成り立っていく。はなから国際的にどうこうなんて大袈裟なことはいわないわけです。あそこの饅頭はうまいと聞いた人が、遠くからも車で買いに来る。そういうの、いいじゃないの、と。

— なかには本当においしい饅頭をつくっているところもあるわけですね。

 田舎の饅頭屋ではもったいないぞという人も当然出てきますよね。そういう人は、東京とかニューヨークとかインターナショナルな舞台で勝負をかける。町の饅頭屋から国際舞台へ。そんな積み上げで大人になっていくと思います。

やきもの産業に未来はあるか

 やきもの産業自体、構造が変わりつつあるんですよ。
 今、技術をもった職人さんが食えなくなってきているんです。例えば、有田ではかつてロクロでつくった刺し身鉢などが、高く売れていたんですね。刺し身鉢などの割烹(かっぽう)食器で職人さんたちはメシが食えたんです。それが、ほかの産地で機械ロクロや型を使って、ぐんと安いものをつくるようになった。そうすると、団体客向けの旅館などは、安いほうを使うわけです。そういうことで、手づくりの高価な刺し身鉢は、高級な料亭ぐらいしか買ってくれなくなってきたわけです。
 有田焼が、伝統、伝統といいながら割烹食器にしかならなかったのは、そういうことなんです。芸者さんが入るような水商売のお店だと高い食器を買ってくれる。買ってくれるということは、客からも高い金がとれるということです。そして、とれる客というのは、土地成金であったり、接待をする社長であったりするわけですね(笑)。水商売が悪だといわれたら、技術をもっている職人は行くところがないんです。

— それは、まさに伝統的な産地が直面する問題ですね。

 本当にそう思います。普通に使えるものをつくったんでは食えないんですから。伝統産地のやきものになぜ新しい模様、新しい品物が出てこないかというと、新しい物は高く売れないからなんです。例えば、カレーライス用の皿をつくっても、伝統的な皿の十分の一の値段ですよ。そのかわり比較にならないほど使われる回数は多いのですが・・・。それが伝統模様を描いた皿なら数は少ないけど一万円以上で売れるんです。割烹の世界だと商売になったんです。ところが、今度は刺し身鉢も売れなくなってきた。伝統を残せというけれど、じゃあどうすればいいんだということなんです。

— 伝統的技術を生かす市場が特殊な料亭では動きようがないですね。

 京都などでは、料理屋などが直接注文してつくらせるんじゃないですか。料亭の女将(おかみ)さんが板前さんと相談して作家に注文したり。魯山人の器を使うのがいちばん高級ということになるんでしょうけれども。
 いずれにせよ、伝統的な器は、社長とか重役とかの給料をうんと上げてやって、そういう特殊な種族を残しておかないと行き場がないんです。つくっている本人たちがいうんです、昔の殿様のような人がいないかなあと。社会の流れとは反対のように思われますけど。

— パトロンがいなくなりましたからね。

 完全に社会が変わったなと思います。

— そうすると、これからのやきもの業界というのは、どういう方向に向かっていくんでしょうか。

 企画・デザインがものをいう面白い産業として残ると思いますよ。ただ、今は産業革命以来の革命期を迎えているんですよ。ロボット革命です。一台の機械で、昭和三十年ごろの五百人分くらいのものができてしまうんです。それも最高の職人がつくったのと同じ品質のものが、一定の時間で間違いなくできる。そういう機械があちらこちらの中小企業で動いているんですね。日常によく使う品物は、ロボットの全自動の機械で安価に生産されています。しかしこれも使う人の感性に対応するように工夫されてはいますが、美しい物というにはまだまだ程遠いところにあるようです。

— 業界で働く人の数が減って、強い業者が生き残る・・・。

 そうなると思いますね。産地は十分わかっていると思うんですが、動きようがないんです。そこが問題なんです。
 だって、市場はもう満杯ですよ。しかも消費者の価値観は多様化している。輸出は昔とちがって円の力が強くなったので、国際競争では落ち目でしょう。それなのに生産は機械だから調整がきかないんですね。つくったら売らなければいけないけれども、安くしないと売れないので値段を下げる。するとほかのところも安くするので、またこちらも安くする・・・。必要もないのに何をやってるんだという感じです。スーパーで売っているあの食器というのは、業界にとっては泣きの涙です。
 しかし日本の食器の生産力と豊かさは、世界でトップですよ。まず器種の多様さ。丸い皿だけでなく三角、四角、魚の形あり、花の形あり。それに加えて絵付技術の多様さや釉薬の多さなど、これからの情報化社会に対して、潜在的な財産はたいしたものです。

紐の切れたアドバルーン

 磁器産業は、今のままでは共倒れするか島国の中の取り残された産業になる危険性があります。しかし護送船団方式は銀行だけじゃなくて、日本全体だと思うんですよ。工業組合も農協もおそらくそうでしょう。だから、だめになるときは銀行だけじゃなくて、日本沈没じゃないかと思うんです。
 若い人も、そういうことを肌で感じ始めているんでしょう。一つの仕事が一生やれるかどうかなんて関係ない。こういうことはやりたくない、好きなことをやるんだというふうになってきています。実にけっこうな社会ですよ。けっこうな社会だけれど、アドバルーンのロープが切れて、プラプラと宙に浮いて、いずれパンクするのか、成層圏を越えて宇宙に行くのかわからない。今の日本は、そんな感じがしますね。

— 結論が出たようですね。やっぱり危ういですね。

 危ういねえ。僕はやきものの世界を通してしか見ていないけども、社会全体が似たようなことだと思うんですよ。そして、日本という意識もなければ、国際化の意識も弱いでしょう。

— 考えたくないんですよ、そんなこと。自分ということも考えないんです。

 学校で、お前、何のためにデザインをするのか、と学生に尋ねても、答えるだけの思想をもっていないんですよ。僕たちのころとはまるで逆になっちゃった。学生のときこそ、デザイン思想、物と人間の生活のことを徹底的に論じなければいけないんですがね。社会に出たら汚染されるばっかりですから。

— 陶器の世界に関しては、どういう方向が模索できますか。

 産地を産業として成り立たせるのは、手づくりではなくデザインの力だと思うんですよ。個人で作品をつくっても一握りの人しか喜ばない。当然それでは産業に成りえません。組織を使っていかなければいけないと思うんですが、それができるのがデザイナーなんです。
 もう一つは昔の産地とは違う作家集落をつくることです。今、村おこしで陶芸作家村のようなものをつくっているでしょう。陶芸作家をまきこんで観光事業を興し、その土地の歴史や博物館、学校などを総合的に見てもらう新しい産地です。ああいうところに産業としての可能性があると思う。

— そういうところに、教養もあって、時代を読むプロデューサーみたいな人がいるといいんでしょうね。

 僕はそれは政治家だと思います。政治家は思想家だと思うんですよ。今いちばん問われているのは政治家だという気がするんですけどね。デザインも含めた広い意味での政治家ですが。面白い人はたくさんいるんでしょうが、本当に動かせる人がほしいですね。

— 社会全般に、難しいことは曖昧(あいまい)にしておこうという風潮があるみたいですね。

 曖昧で来られる限界まで、来ているんじゃないかと思うんですが。

— 紐の切れたアドバルーンが、どこに飛んでいくのか、ということですね。今日は長い時間、本当にありがとうございました。

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